日本から友人がやって来ていたので、一緒に Preah Dak Village(プレダック村)へ行ってきました。アンコール・ワット遺跡に近い村で、この村の青年たちが中心になって、観光による村おこしで頑張っていると、しばらく前に、東京の大学で観光学を教えている教授から聞いていたからです。

シェムリアップの中心部から、トゥクトゥクで40分ほどで到着、大卒“インテリ”のブンタン青年が出迎えてくれました。流暢な英語で、まずは本日のスケジュールの説明から始まりました。特産の線香や麺、カゴなどを手作りしている村人たちの家を順番に廻って、夜は、近くにある政府が開発した新地区の中のエコビレッジで宿泊ということです。

あたり一帯がユネスコの世界遺産に指定されているため、新しい家を建てることが難しく、開発などによって家を失った人たちが徐々に居住を移している地域のようです。カンボジア人なら無償だそうですが、新しく開墾された“オーガニック農場“には中国語の大きな看板が立てられていました。

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ところでその説明の中で、ブンタン青年が「昼食後に Taizo Ichinose の墓に案内します」というのを聞いて、私はあっと声をあげそうになりました。一ノ瀬泰造の名前は、「地雷を踏んだらサヨウナラ」というフレーズと共に、私たちの世代なら、多くの人たちが知っている名前です。

うかつにも、今まさに私たちが“観光気分”でやってきた、この国のどこにでもある、火炎のように赤い土と濃い緑の樹木に囲まれた熱帯の村が、彼が26年の短い生涯を終えたクメール・ルージュの村だったとは、想像だにしていなかったのです。

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この木橋をわたったところに TAIZO の“墓”はありました。

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ブンタンが連絡をしたのでしょう、この土地の持ち主で、“墓守”をしているコォン・トゥンというおじさんがバイクでやって来て、カタコトの日本語でいろいろ説明してくれました。墓のまわりはきれいに掃除され、傍らに設営されたあずま屋には、そうとうボロボロになった日本語の資料が何点か並べられており、サイン帳には比較的新しい日付の記帳が並んでいました。日本人の来訪はけっこう多いようです。

しかし、一ノ瀬泰造の墓はここにはないはずです。消息不明後、ご両親が生存を信じて懸命に捜索されているという話は、メディアでも比較的大きく扱われました。その後、1982年に遺体が発見され、ご両親によって本人であることが確認されて、遺骨はすぐに故郷の佐賀県に送られたはずです。一部分は、彼がそれほどまでに憧れたアンコールワットがよく見えるようにと、すぐ近くの菩提樹の根元に埋められたと聞いたこともあります。

“墓”へ入る小道の入り口には、「一ノ瀬泰造の墓」と、日本語で書いてあり、「一ノ瀬泰造ここに眠る」という文字も見られます。ブンタンも、「墓に案内する」といっていました。この“墓”は、2001年に、コォン・トゥンのお父さんが建てたそうですが、日本式でもクメール式でもない奇妙な形式の墓が、いったいなんのために建てられたのか、そこまでを聞く気にはなれませんでしたが、おそらくは、この場所から一ノ瀬泰造の遺体が掘り出されたのでしょう。

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いずれにしても、泰造はシェムリアップにしばらく滞在して、当時クメール・ルージュの拠点だった“幻のアンコールワット”一番乗りのチャンスを待ち、この村でもほんの短い時間を過ごしたはずで、村人たちとの交流もあったようです。

周辺に拡がる湿地帯や丈高く茂るサトウ椰子、ブーゲンビリアにハイビスカスの花、小動物や昆虫たち、時には通ったかもしれない牛車、もしかしたら水浴びする子どもたちの姿も目にしたのかもしれないと、40年以上の昔を懸命に引き寄せながら、生きていれば私と同年のおじいさんとなっているはずの泰造にしばし黙とうしました。