ウナローム寺院は1443年に建てられた、カンボジア仏教マハニカーヤ派の総本山で、カンボジアでは最も格式が高いお寺です。やはりポル・ポト政権時代にほぼ破壊され、後に再建されたものです。ただ、ポル・ポト政権時代に、その総司令部がここに置かれたという話もきいたことがあります。90年代までは、広島から毎年何人かの僧が修行に訪れていたそうで、「ひろしまハウス」は、その縁があってここに建てられたものでしょう。

で、この寺に、1993年にカンボジア総選挙の選挙監視員として来ていて、クメール・ルージュに殺害された中田厚仁青年の慰霊碑があるはずで、私は寺域内をウロウロ探し回りました。しかし周りにいる人たちに聞いても、誰も知りません。もっとも、女性が僧侶に話しかけることは禁じられているので、それはできなかったのですが…。1日目はあきらめて、翌日また出かけました。

「地雷を踏んだらさようなら」のフレーズで、一ノ瀬泰造は私たちの世代にはよく知られていますが、中田厚仁は一ノ瀬より20歳若く、しかも亡くなってすでに26年もたっているので、今の若い人たちは知らないのでしょう。ひろしまハウスにいた日本人スタッフの青年もきょとんとした顔をしていました。これはいよいよ、誰か男性を連れてきて、お坊さんにきいてもらうしかないかと思っていたら、さっき聞いた人がこっちこっちと、私を呼びに来てくれました。

慰霊碑は、塀で囲まれた墓地の中にあったのです。左側は中田青年、右側は、当時共同通信のプノンペン支局長として赴任していて、やはりクメール・ルージュに捉われ、拘禁中に病死した石山幸基記者のものです。碑のまわりはきれいに掃除されていました。

中田厚仁は、1968年生まれ。父親の仕事の関係で幼い頃をポーランドで過ごし、アウシュビッツを訪れた時に衝撃を受けたそうで、小学校の卒業文集に、「国連で働きたい」と書いています。

「この世の中に誰かがやらなければならない事がある時、僕がその誰かになりたい」というのが、彼が遺した言葉ですが、ほんとうにその言葉通りの人生を選んだのだなぁと、ようやく慰霊碑と対面した時に、思わず涙が出てしまいました。

遺体と対面した時に、「我が子ではなく、何かもっと崇高なものを見た気がした」とおっしゃっていたお父さんは、商社員を辞めて、国連ボランティア名誉大使として活躍され、2016年に亡くなっています。息子の追悼式が終わった後に、彼が生まれた時に植えた桜の木を「厚仁とともに、お前の役割も終わった」と切り倒してしまったという、壮絶な逸話も私の心には強く残っています。

そして、不勉強ながらも、中田厚仁の名前を冠した村があることを、私は今回初めて知りました。それは私がこの間、何度も何度も通っている、プノンペン-シェムリアップ国道上の、コンポントムにあったのです。正式には、「ナカタアツヒト・コミューン」という名称で、まさに彼が殺害された場所に内戦後新しくできた村です。彼の名前を冠した小・中学校もあるようです。

これは、村を大洪水が襲った時に食糧を買って欲しいと日本で募ったお金を、「食糧も喉から手が出るほど欲しいけれど、アツヒトのやったことを、自分たちの子どもや孫たちに伝えてゆくために学校を作りたい」という村人の希望に沿って建てられたものです。次回にプノンペンに車で行くときには、必ず訪れてみるつもりです。

実は、プノンペンからシェムリアップに戻る日に、みたびウナローム寺院を訪ねてみました。迎えに来たセイハーが一度も行ったことがないというからです。そこで、本堂に上がろうとしたら、何やらセレモニーをやっていました。もちろん私にはさっぱりわからないのですが、セイハーがこりゃえらいことだというので、よく聞いてみると、この写真の人がこの寺のヘップボーン大僧正で、なにやら叙勲の儀式の最中だというのです。この人こそが王宮の儀式を司るカンボジア最高位の僧で、いわば有難過ぎて目が潰れるくらいの人なんだそうです。

で、そんな人の写真なんか撮ってもいいのか?と思われるでしょうが、これが周りにいる人たちはみんなスマホでプチプチやっているのです。そこで私も遠慮なく1枚。カンボジアって、そこら辺は、何かと緩~い国なんです。