プノンペンからメコンを越えて向こう側、カンダール州へ行くために、またしても国道6号線を東に向かいました。いつもは、とても幹線国道とは思われない交通量なのですが、カンボジアでは今日から3日間、プチョンバンというお盆休みに入るので、これまでになく混んでいました。家族そろって故郷に帰り、ご先祖様の墓参りに行く、あるいはそれに借りて親族友人たちと旧交をあたためるという、日本と同じような‶伝統行事″です。

2時間ほど走ったところで、プレサックサンボー郡に行く道を折れてしばらく走りました。私が持っていた情報は、中田厚仁が1993年、プレサックサンボーから州都のコンポントムに向かう途中で銃撃を受け、その場で死亡したというものだけでした。ただ、その後村に作られた「アツ小・中学校」の写真を持っていたので、それを見せれば恐らく見つかるだろうと思っていました。

私のこだわりがよくわかっていないセイハーは、そんな漠然とした情報だけでは見つからないと言い張るのですが、私には自信があったのです。なぜなら、たとえ26年前とはいえ、外国人がクメール・ルージュに殺害され、その後に、その日本人のことを記憶に残すための学校まで建てたという‶大事件″を、近隣の村人たちが覚えていないわけはないと思っていたからです。今でこそ、村々にもスマホが行き渡っていますが、その当時からつい最近まで、情報は当事者から直接、口から口へと語り伝えられ、読み書きとはあまり縁のない人たちの脳裏には深く刻み込まれて風化することがない、ということを、私は12年間の中国黄土高原暮らしで、イヤというほど思い知らされていたからです。

ほとんど人家のない道を15分ほど走ったところで人影をみかけたので、まずは学校の写真を見せて、知らないか聞いてみました。思った通り、その人はまだ若い男性でしたが、その道をまっすぐ行った先にあるというのです。その後に2度訊ねたのですが、2度とも同じ答えで、私たちがまずは、と選んだまさにその道の途中に「アツ小・中学校」はあったのです。

お盆休暇で誰一人いませんでしたが、校門からのぞいた校庭はきれいに手入れされ、樹木も茂っていて、とても気持ちの良い、美しい学校でした。正面にある「A」というモニュメントは、アツヒトの頭文字をとったものです。

学校のすぐ隣に家が1軒あったのでのぞいてみると、まるで待っていたかのように、ひとりの老人が縁台に座っていました。さっそくセイハーに、アツヒトのことで何か覚えていないかと聞いてもらいました。ちなみに、こちらでは「アツヒト」ではなく、「アシュー」と呼ばれています。カンボジア人には、「ツ」という音を発音することが難しく、みな「ス」としか発音できないのです。

今年83歳という、当地ではきわめて稀な高齢の彼がいうには、自分はアシューとは会ったことはない。ただ、この家の前で銃撃されて死んだということを知っているだけだ。クメール・ルージュに殺されたというが、その中にもいろんな組織があって、誰が犯人かはわからない。ということでした。そして、学校の向かいにある白い建物を指さして、あの家は、アシューのお父さんが建てたものだというのです。

学校の真ん前に‶瀟洒な″白い家が建っていました。言われてみれば、カンボジアというよりは日本風な建物です。今は使われていないそうで、窓も扉も固く閉ざされていましたが、庭はきれいに整えられていて、荒れた感じはぜんぜんありませんでした。村人たちが手入れをしているのでしょう。

学校が建てられたのは1998年、恐らくは同じ年くらいに建てられたものだと思います。2016年に亡くなられたお父さんは、アツヒトが殺害されて後、商社マンを辞めてその後の半生を国連のボランティア活動に捧げられた人です。アツヒトが息を引き取ったまさにその場所に白い家を建て、きっと毎年ここに通っては、愛する息子の菩提を弔っておられたのだと思います。お父さんがこの家で過ごされた長い長い時間に思いを馳せました。今は無住となってしまった白い家とアシューが、村人たちの記憶の中にいつまでも残ってゆくことを祈るばかりです。